轟神社の歴史

轟神社の歴史

本滝は轟神社が創建する前から近隣地域はもちろん遠方の人々からも信仰を集めていました。初代阿波藩主の蜂須賀家政が朝鮮出兵の際に当神社に海上安全祈願をしたと伝えられていますが、神社創建は1591年。朝鮮出兵は文禄の役が1592年、慶長の役が1597年と、どちらにしても創建後間もない神社に藩主が遠方からわざわざ訪れたということは、少なくとも阿波藩内には本滝への信仰が根付いていたのではないでしょうか。

蜂須賀氏は藍商人と共に阿波藍の流通を全国に展開し、50万石規模の一大産業へと発展させました。その流通の肝となった廻船業を支えてきた船大工に重宝されたのが海部の木材でした。当時の海部の有力者たちは林業で阿波藍や阿波踊りをはじめとする文化振興や藩の発展に大きく貢献したと云われ、阿波海部は日本において欠かせない需要な地域であったようです。

蜂須賀まんじ
轟神社に掲げられている蜂須賀氏 家紋の卍(蜂須賀まんじ)
出荷の拠点
山から切り出された木材の集荷/出荷の拠点(昭和初期/海部川河口付近)[資料提供:CS海部]
貯木場周辺の見取り図
貯木場周辺の見取り図[資料提供:CS海部]

林業、水産業、廻船業、農業など海部は水に恩恵を受ける産業が地域経済を支えており、海部の水の始まりである轟滝と水の神を祀る轟神社は彼らから厚い信仰を集めていました。また、海部地域だけでなく遠くは宮城や鹿児島の信者がいたことも記録されています。高知、広島、和歌山、兵庫などは信者が多くいたことからも日本の水産業、廻船業を支える精神的な要として轟神社があったと考えられます。

例大祭

轟神社大祭について