総代紹介

総代紹介

2019年から轟神社の総代は永原レキと岩本健輔が担っています。
元々は神社の存在もほとんど知らなかったいわゆるヨソモノの2人ですが、年配の氏子たちから「これからは若い人たちに任せる」と襷を受け取りました。
海、川で日々を生きる彼らが神社に抱く想い。
お時間あれば覗いてみてください。

■ プロフィール

永原 レキ(礫) Leki Nagahara
海陽町宍喰出身。14歳からサーフィンを始め、国内外をめぐる。2010年Uターン帰郷。2016年藍染スタジオin Between Bluesを設立。阿波藍や海を通じた故郷の歴史文化の探求と発信に務める。


■ 轟神社に関わり始めた理由

2010年当時バイトしていた接骨院の患者さんが神社の氏子で、毎年若手スタッフが神輿の担ぎ手として借り出されていたことから声をかけられ参加した。

海部川河口や宍喰の波に惹かれてプロサーファーの父が母と共に関西から宍喰に移住し、僕が生まれました。初めてサーフィンをしたのは14歳。それまでは地域の人たちとサーファーとの溝を身近に感じてきたことと、自分たちを置いて町を出て行った父への個人的な想いが絡まってサーフィンには良いイメージを持っていませんでしたが、波に乗ったその一瞬で虜になりました。海の上を波と共に進む爽快感は何物にも変えられなかったし、幼いころから感じていた様々なモヤモヤも浄化してくれたようにスッキリしました。そこからサーフィンが人生の核になりました。


大学卒業後はサーフィン、音楽、アートを学ぶため国内外様々な場所を巡りました。故郷を大切にしながら環境問題を考えアクションを起こす素晴らしい人たちに刺激をもらい、オーストラリアではオーガニックな食や生活用品が当たり前にある環境にも感動しました。
「Think Global,Act Local」を理念に生きていこう、と2010年に海陽町に帰郷。戻ってすぐ藍染製品を製作している縫製会社トータスに出会い、藍染は植物の力で生まれる環境にやさしい染色方法だと知りました。衝撃でした。自分がオーストラリアで感動したオーガニックな製品づくりが、既に自分の故郷で実践されていたんです。その後トータスで藍の栽培や染色、製品企画など学ばせてもらいながら、藍染という文化と海陽町の自然環境は世界に通用する素晴らしいものだと確信しました。2016年に藍染スタジオin Between Bluesを設立し、自分の核となるサーフカルチャーと藍染、そして地域文化をつないでいこうと試行錯誤しています。

轟神社には2010年の秋季例大祭で初めて関わりました。轟の滝は知っていましたが、僕の住む宍喰とは地域も違うし1回行ったことがあったかなぁ、ぐらいの感じで。当時バイトをしていた接骨院の患者さんがたまたま轟神社の氏子で、人手不足を補うために毎年そこの若手スタッフを担ぎ手として誘ってたんです。どんな祭りかも知らないまま面白そうなのでやりたいと気軽に手をあげました。寒い中裸になって何度も滝に入って禊をしたり、神輿の重さで滝壺で沈んでしまい溺れかけたりとハードな体験でしたが、こんな素晴らしい祭りがあるんだと感動しました。忘れられないのは、初めて禊で滝の奥まで泳いで振り返った時に見た、自分たちのいる滝壺に満月の光がスッと差していた光景。それが自分にとっては衝撃の体験でこの場所と祭りが特別なものになりました。


人生の核であるサーフィンも藍染も深い水の恩恵を受けていることから水の神様である轟神社への想いも強くなりました。自分の生活を豊かにしてもらっている感謝も込めて、轟の場所と祭りは絶対に守りたいと関わらせてもらっています。
自分の役割のひとつは神輿の担ぎ手の人集めです。サーフィンを通じて様々な友人がいるので、SNSで参加を呼びかけるとありがたいことに色んなひとが集まってくれます。地域の祭りでは土地の人や血縁者以外はなかなか入れないこともあると思うんですが、轟の氏子のおっちゃんたちは自分や健輔も含め外から来る人たちを拒まず、どんな外見でも知らない職業でも喜んで面白がってくれるんです。人がいないから反対している場合じゃないという部分もあるのかもしれませんが、それでもなかなかできることじゃないと思います。本当に懐が深くて暖かい人たちで尊敬しています。

轟神社は水産業、林業、廻船業など海部地域の産業や文化はもちろん、歴代阿波藩主から信仰されてきたことからも阿波藍の全国流通や阿波踊りなど徳島全体の文化と歴史につながりが深いのではと考えています。滝や祭りの魅力だけでなく、歴史的にも重要な場所ということをもっと色んな人に知ってもらうためにも、藍やサーフィンといった自分の活動ともうまく絡めて発信していきたいです。
また、現在若手は自分たち含め外からの人間が多く関わらせてもらっていますが、地縁がある地元の人たちをまきこんでもっと地域全体で轟を大切にしていけるようになるのが願いです。水に恩恵を受ける人たちがそれぞれの立場でこの場所を守っていけるように。そして、この町に住む人たちが歴史を受け継ぎこの土地での生活を豊かに守り、水、自然を大切に思い行動できる人が増えていけば良いなと思います。

■ プロフィール

岩本 健輔 Kensuke Iwamoto
静岡県出身。幼いころからの釣り好き・魚好きが高じて大学へ進学、大学院を経て水産生物の研究職に就く。2013年に海陽町に移住。2018年「世界一おもしろい水産業へ」をコンセプトに株式会社リブルを仲間と設立。牡蠣の種苗生産販売と養殖業をおこなう。


■ 轟神社に関わり始めた理由

2014年、神輿の担ぎ手だった友人が参加できなくなり急遽代わりに参加した。

父の影響で物心ついたころから水辺の生き物が好きで、いつも網や釣り道具を持って海や川に行っていました。小学生の時には毎日のように学校からの帰り道に川の中に入って遊んでいて、なかなか家にたどり着かなかったことを今でも覚えています。

「魚の研究がしたい」と沖縄にある琉球大学海洋自然科学科に進学。分子生態学で理学博士号をとり、沖縄県水産試験場や琉球大学で博士研究員として勤務していましたが、美波町にある民間の海洋生物研究所への転職がきっかけで海陽町に移住しました。それまで徳島県の場所もあやふやなぐらいで特別この場所を選んで来たわけでは無いんですが、こちらに来て住んでみると、沖縄にも負けないぐらいの美しい海と、子供の頃に遊んでいたのを思い出すような生き物が豊かで綺麗な川がすぐ近くにあって思い立てばすぐ釣りに行けるこの町が好きになりました。


現在は株式会社リブルという会社を設立し、牡蠣の種苗生産販売と養殖業をしています。前に勤めていた会社の新規事業として牡蠣養殖の話が立ち上がり、那佐湾をはじめ県内各所での試験養殖を担当していたのですが、会社として牡蠣養殖事業は続けない、やらないということになりました。でも結構うまく育てられていたし、美味しかった。そして何よりここまでお世話になってきた漁協や地元の漁師さんたちの手前、ここで辞めるのもなんだか嫌だな、と。じゃあ会社を辞めて個人でやってみようと思い立ちました。始めは自分が食べる分とちょっと売る分ぐらいの規模で、費用的にも作業的にも一人でこじんまりとやれる副業程度に…というつもりだったんですが、今の仲間が話を聞いて面白がってくれたこともあり一緒に会社をすることになりました。

轟神社に初めて関わったのは海陽町に移住して丸一年が経った2014年の秋季例大祭でした。神輿の担ぎ手をしている友人がその年は参加できないので代わりにどうかと声をかけられて。それまでは轟の滝や轟神社の存在すら知りませんでした。どんな祭りかもほとんど聞かされず、祭り前日からの泊まり込みということと濡れるのでバスタオルを持ってきたほうが良い、ということぐらい。蓋を開けてみれば寒い夜に裸で何度も滝に入って禊をし、重い神輿を担いで石段を下り滝壺に入り…とかなり過酷なものでした。でもそれがとても楽しかったんです。前日からみんなで泊まり込んで酒を酌み交わし時間になったら禊をするのも楽しかったし、祭りを無事に終えた時にこれまでに味わったことのない清々しさを感じました。そこからはほぼ毎年参加しています。御輿渡御から境内に戻り、祭を無事に終えた時のあの達成感や充足感は、担ぎ手にしか感じ得ない特別なものですね。


釣りや魚が好きで現在の生業も水産業なので水の神様を祀る轟神社に感謝したいという想いももちろんありますが、自分が神社に関わっている一番大きな部分は、秋季例大祭と滝を含めた轟のあの場所が好きだという単純な想いです。

大好きな祭や場所を守るために何か自分がやれることがあればやっていきたいという一心で関わっています。

レキくんの役割を“表向き”とするならば、自分の役割は裏方。一昔前までは轟神社も多くの氏子や総代さんたちがいて普段から神社を支え、祭の時には御神輿を担ぐ我々「神輿舁(みこしかき)」のお世話や指導をしてくれていました。言うなれば担ぎ手は皆「表の人」「主役」「客人(きゃくじん、まれびと)」でした。けれど地域住民が減ってしまった今では、担ぎ手である自分たちが率先して動かなければ祭自体の存続が危ういくらいの状況で、誰かが裏方の役割を担わなければいけなかった。それをたまたま今は自分がやっている、やらせてもらっている、ただそれだけなんです。
担ぎ手メンバーに神社や祭のルールや意義を伝えていくこともひとつかと思います。担ぎ手の中にはこれまでも巡り合わせでやってきた旅人など1回だけの参加者もいましたし、年に1回のお祭りの高揚感に祭前日からのお酒も相まって禊の時間やご飯の時間、靴の脱ぎ方一つとっても皆なぁなぁになってしまいそうな空気になることもあります。でも神事ですし先人たちから伝わってきた守るべきものは守っていきたいので、楽しみつつもそこはきちんとしよう、と伝えています。

自分の大きな役割は、轟を知ってもらい、実際に来てもらい、お金を落としてもらう仕組みづくりをすることだと考えています。
こう言うと金儲けをしようとしていると勘違いされるかもしれませんが、どんどん氏子も少なくなっていることで老朽化した神社を補修する費用を捻出するのも厳しいのが現状です。最低限のお金がなければ神社の存続も危うくなってしまいます。将来的には、放っておいても人もお金もほどほどに集まってくる場所になってほしいですね。そんなに大量ではなく、ほどほどに。
先人たちの教えや歴史とともに大好きなこの場所を未来につなげられるよう、自分たちの代でできることをやっていきたいです。