轟神社とは
轟神社は大越家四世吉祥院興栄という修験者がこの地に籠もり、本瀧に祈願して数々の霊験を得、天正19年(1591)11月13日に創建されました。
阿波国藩主をはじめ古くより遠近からの崇敬を受け現在に至ります。水の神を祀っていることから、水に深く関わりのある生業の人々からは特に厚く信仰されてきました。
家内安全、無病息災、交通安全、学業、農林、漁業、商工業をはじめ諸願の霊験あらたかな神様として崇敬されています。
神秘的な本滝を始め轟九十九滝を含む広大な境内は「日本百景」、「日本の滝百選」に選定され、心願成就のパワースポットとしても知られています。
秋季例大祭(11月13日)で行われる荒神輿の大滝壺入りは豪快な奇祭として全国的に有名です。
轟神社・はじまりのものがたり
轟の滝はまたの名を王余魚(かれい)瀧といい、その昔漁師が滝の下流でカレイが浮遊するのを見た事に由来します。
南海の龍女が王余魚瀧と紀州熊野の那智滝からこの地を選んで住処とし、降雨出水を司るようになったといわれています。「かれいだきさん」「とどろきさん」と呼ばれ古くから信仰されてきました。
その後修験者である吉祥院興栄がこの地に籠もり、水波女命、國狭槌命、大山祇命を奉り神霊のいるところとして奉納し轟神社を創設しました。
祭神について
轟神社は水波女命(みずはのめ)、國狭槌命(くにさつちのみこと)、大山祇命(おおやまつみ)の三神を奉っています。
水波女命は水を司る女性の神様であることから、日照りが続いた時にはこの神社で雨乞いが行われていました。また、林業、農業、漁業など水に恩恵を受ける生業の人々からも大漁祈願、五穀豊穣などの願いも込め厚く信仰されています。
社殿について
当初社殿は滝近くに建てられていましたが、大洪水により流れてしまい現在の地に再建しました。元の場所には轟本瀧神社を建て水波女命の荒魂を祀り、轟神社には和魂を祀っています。なお『轟神社由来書』によると、流出した社は紀州熊野沖に無傷で漂着し、那智山に分祀・分霊されたとあります。
梅枝家について
(権禰宜 梅枝良彦・第二十代宮司 梅枝紘一)
轟神社を創建した四世吉祥院興栄の末裔が代々轟神社の宮司を務めています。修験道を奉じ吉祥院と称していましたが、明治三年(1860年)平民に姓を称することを許されたのを機会に、四代興栄が天満宮を創祀した以来天満宮を奉斎してきたことなどから、菅原道真にちなんで十五世良玄が梅枝姓に改姓しました。明治初年の神仏分離令、つづいて明治五年修験道廃止令が発布され、梅枝家は神社古神道を奉じ神職となって現在に至ります。
霊獣について
昔この里に住む一人の男の元に美しい女性が現れ「私は南海の龍女だ。紀州熊野の那智滝とこの地の王余魚滝どちらかを住処として民を護ろうと考えている。そこで那智滝を見てみたのだが滝壺が浅く住処になりそうになかった。そこでこの地に永く住み降雨出水を司り民を守ることにした。ただしこのことは数年経つまで絶対に他の者に言ってはいけないよ」と伝えた。男は誰にも言うことなく、後年になってこの地を住処にしている龍神のことを語り残した。
この言い伝えから、轟神社が創建されるずっと前から本滝の龍神は近隣住民はもちろん遠方の人々からも信仰されてきました。
ロゴについて
こちらの轟紋様は、美術家野老朝雄氏により令和元年に轟神社に奉納されたものです。藍文化を通じて徳島と繋がり、古来阿波藍の海上交易を支えた海部の林業(舟材)や、江戸時代の阿波藩主蜂須賀家が代々海上安全祈願のため轟神社を参拝された史実、また、今なお海と山の民が共にその繋がりに感謝する祭が継承されていることに感銘を受け、この紋様を制作して下さいました。
ヒトと自然、国境や世代を超えた繋がりの大切さをここ海部の地よりこの紋様と共に伝えて参りたいと思います。
美術家 野老朝雄(ところ あさお)氏
□主な作品□
東京2020オリンピック・パラリンピックエンブレム“組市松紋”
徳島県“藍とくしま”ロゴマーク/ “組藍海波紋様”
東海汽船(3代目さるびあ丸/セブンアイランド結)船体カラーリングデザイン